「かわいそう」の次

かつて担当させていただいた”元児童”や”元要保護/要支援児童”から、カフェの営業を通じて、たくさんの身の上話を聞かせていただきます。

いまのこと。むかしのこと。あるいは、自身のルーツに関する感情と意味付けについてとか。

支援現場にいるときと変わりませんが、感想はいつも”すごい”の一言です。

自分が彼らと同じ年齢だったとき、こんなにたくさんの荷物を抱えていたらと考えると…彼らのように前向きに考え取り組むことができていただろうか、と驚嘆することが多いです。

彼らの立場からすれば、受け入れて取り組むしかなかった、と言われるとそれまでなのですが、同じようにできると声にできず、自分の不案内を自覚するばかりです。

支援者として仕事に就く前、何冊かの要保護児童についての本を読んだ感想は「かわいそう。おれがなんとかしなきゃ」でした。たしか、子どもが庭で木に逆さ吊りにされたり、コンロの火で焼かれたりする話を読みました。

「ゆるさん、おれが助けてやる」みたいに意気込みました。

でもいつしか、彼らと生活の場をともにし、一人一人異なる話を聞くうちに「自分ができること」に関する自負のようなものはどんどん範囲を狭めていきました。

いまの立場になって手元に残っているのは「見送ることと見届けること。それを可能な限りで続けること」です。私の振る舞いや関わりの何が正解で、不正解だったかなんて、結局のところはっきりは、わかりません。でも、関わり続ける中で、彼らの成長に立ち会うことができるのは、ほかに比べるものがないくらいの喜びで、またちっぽけな私の誇りになっています。

わたしがいま自負できる”しえん”は極端にいえば、そのくらいです。もう支援という言葉を当てはめることにも違和感を持っています。

主観の言葉になりますが、彼らは一人でに成長し、自立をしていきます。もちろん、施設や福祉サービス、周囲の大人たちの恩恵を大なり小なり享受し、善意の環境に支えられて、ではあるのですが、彼らの成長物語の主体と責任者はあくまで彼ら自身です。

なにが響いたか、なにを受け取って学びに変えるか、は彼ら個々人に委ねられます。

それでは、専門性が確立できないので、養育的態度や施設/集団管理の要訣はもちろん学術や経営の領域で経験が束ねられているわけですが。具体的に「これが正解」とひとまめで、私の口から明示できない、とご理解いただければ幸いです。

措置された経験のある子には特に、子どもの権利に代表されるような”健全成長のためにあるべき(と考えられる)環境下”にない、状況に立たされるときが多々あります。その中で、彼らは真正面に向き合い(あるいは向き合わされ)、360度不条理の世界の中で、具体的な明日への一歩を仮定し、踏み出してきました。

その試行錯誤の足跡の話に、私はいつも圧倒されます。そこで身につけた処世術は、ところどころ社会の常識とはズレがあります。強烈な経験に裏付けられた振る舞いと、社会相当性の現実とのすり合わせを強いられながら、それでも、同等の経験をしていない私やほかの大人達とふいに笑いあったり、気持ちを通わせたりする。そのときにいつも、なにか尊いものを目撃するような、感動の気持ちをただただ感じます。

その「すごい」話は、人の普遍的な何かに関する話だと思います。これをいろんな人に言いたい、という想いにかられることがあります。

さいきん児童養護施設についての記事や話題をお知らせいただく機会が多いのですが、児童個々人の話は「かわいそう」で完結するか、その個人を離れた団体さんや組織さんの活動に推移する内容が多い印象です。

私は、上記のような感慨を得る体験を重ねているので、照らし合わせると違和感があります。しかし新聞記事と、私の心情では目的が異なるので、正否でわける類のことではないでしょう。

だから「かわいそう」の先の「人のすごい」に関するお話を、何らかの形でお伝えしたい、と願っています。たぶん、反応が得たいのです。

また一つ、機会を待つ企画が増えた、という話です。少しずつ記録にしていきたいと思っています。

※児童養護施設の可否について、悪いと断定する識者の方がいらっしゃいますが、そんなに白黒はっきりと公言できる内容ではないと思います。良し悪しの判定は生活されたご本人が自身で意味付けできる空白を残すべきで、”傾向”や”環境としての望ましさ”など、論じる第三者として適切な言い方を考えていただけたらとは考えています。